単なるメモなので、裏オータムでメモっておきます。
[日常]どん底からの報告:『山谷崖っぷち日記』からより
無知と卑屈と傲慢の三位一体を体現した人々とは、腐るほど出会ってきた。知識それ自体にはさほどの意味はないのだろうが、知識を手に入れる過程で身につく教養なるものは、なるほど重要なものなんだなということが、これら三位一体を体現した人々と接触するたびに痛感させられるのだった。
「知識を手に入れる過程で身につく教養なるもの」は、知識と知識の間にあるもの(知識の過程)と捉えるとコンテキスト(文脈)と関連性があるのだろうか?
イコールであると捉えるのは間違いであるような気がするけれど、さりとて関係がないとも思えない。
無知であることが恥と陋劣<ろうれつ>さにつながらないためには、どれほど例外的、超人的な意志力を必要とするかに想いを致せば、私は、無知は恥と陋劣さの母胎だ、と言い切ってしまいたい気持ちにかられる。
ここ数年インターネット上で、知識があるのに(無知ではないのに)「恥と陋劣<ろうれつ>さ」を体現しているように思える人間を多く見るような気がするが、どう判断すれば良いのか。(もっとも、偏った知識ばかりで、しかも基礎ができていないので、知識を活用することもできていない者ばかりだが)
やはり、知識そのものにはさほどの意味が無いのだろうか。(そのような気がする)
では、「無知は恥と陋劣さの母胎だ」という主張は誤りであり、知識があろうと無かろうと、「恥と陋劣さ」は出現しうると考えるべきだろうか?
もし、そうだとすれば、真の「恥と陋劣さの母胎」とは何か?
あるいは、この本の著者の時代と現在とでは、「知」に対する何かの条件が異なっているのだろうか?